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2月号 「『日本百名山』発行50年の年に」

2月号 「『日本百名山』発行50年の年に」

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上野 司

 深田久弥の「日本百名山」が世に出たのが1964年だから、今年は発刊50年の年ということになる。今や、深田百名山の登頂は中高年登山者に広く共有された登山目標となり、日本の中高年登山ブームを引っ張る牽引車の役割をも担っているかに見える。

 折も折、今月号の登山月刊誌「岳人」は、「『日本百名山』を考える」という特集を組み、多くの論客に「日本百名山」について語らせている。ここでその内容のすべてを紹介することはできないが、その中から私の心に留まった三つの事柄について書いてみたい。

 一つ目は、深田の「日本百名山」は刊行当時、登山界からはほとんど関心を向けられなかったが、文学界からは高い評価を受けたという事実である。当時から日本の山岳ジャーナリズムを率いていた「岳人」、「山と渓谷」などの月刊登山雑誌からは、無視と言わないまでも、きわめて淡白な扱いを受けたのに対し、朝日新聞の文芸時評はこの本をトップで取り上げ、「不朽の文学」、「正確簡潔、無償の歓喜にみちた文章で百名山を描いた」と絶賛、翌年、読売文学賞にも選ばれたのである。このことについて、山や旅雑誌の編集者・大森久雄氏は、「山登りの持つ精神性を正面から受け止めることができない、当時の山の世界の弱体である」と述べている。当時の山の雑誌の関心は登山技術や登山記録に偏っており、山の品格、歴史、個性を2000字に込めて描き、山の世界を深めた深田の仕事に対し適切な評価をするだけの力を持ち合わせていなかったのであろう。私たちも、「百名山」をただの登る山のリストとだけとらえるのではなく、改めて深田の「日本百名山」をじっくりと読み、山と人生について思いを巡らせながら山登りを続けていきたいと思う。

 二つ目は、冒険家にして雑誌「岳人」の編集者でもある服部文祥氏が語っていることだが、「深田百名山をすべて登ったという人はたくさんいる。だが、深田久弥が歩いたルートから全部登ったという人は本人以外、一人もいないのではないだろうか」という点である。深田が実際に百名山に登ったのは、90年前から50年前。当時から今までの間に、林道が伸び、新しい登山道が整備され、ロープウェイがかかるなど、大きく変貌した山も多く、当時の登山の苦労は今とは比べ物にならないものだったであろう。服部はそんなことを思い、百名山・平ケ岳に深田の辿ったのと同じルートから登ろうとする。しかし、登山靴で谷歩きから尾根の藪漕ぎへとルートを取った深田たちと同じルートを取る気になれず、沢をもう少しつめ、藪漕ぎをして稜線に這い上がっている。下山も沢通しに降りた深田一行に対して、服部は林道伝いに下山するルートを取った。このように、「百名山を登った」と言っても、深田が登ったルートとは同じルートではない場合が多い。できれば、深田たちの辿ったルートを調べ、当時とはいろいろな意味で苦労が違うことを自覚しながら、山登りに向かいたい。ちなみに、現在の平ケ岳登山は、銀山平温泉に泊まり、宿泊者だけに行っている送迎サービスで中ノ岐登山口に行き、そこから平ケ岳を往復する6hコースか、鷹ノ巣尾根の登山道からの往復12hのコースが一般的だ。私は沢登りと山スキーが好きなので、平ケ岳には恋ノ岐川からの沢登りと越後三山から尾瀬に連なる残雪の尾根道を辿るスキー縦走での2回登っているが、道なき道を行った当時59歳の深田の体力と技術はかなりのものだったと推察されることを付け加えておこう。

 三つ目は、深田百名山を指標にして山登りをすることの功罪について、樋口一郎氏の書いている文章が面白い。一般的に言われている功罪の「功」としては、人は目標があった方が活動を続けやすく、多くの登山者が山登りを続ける良い目標になっているということだ。「罪」としては、百名山に選ばれた山々が混雑し登山環境が悪くなることと目標を速く達成しようとして、最少の費用と時間でたくさんの山を登ろうという効率重視の文化を生み、自分の頭で自分のお気に入りの山を考えるという思考が失われていってしまう危険であろう。樋口氏は、これはこれとして、不動の百名山が存在することの意義が二つあると言う。一つは、かつては一部のエリート岳人だけに光が当たっていた山岳世界に、一般の登山愛好家が入り込める基準が生まれたことだ。樋口氏は言う。「登山の記録というと、初登攀とかバリエーションとか、著名な個人・山岳会・大学山岳部の活動に目が向けられ、それ以外はその他大勢であり、光彩の周辺に置かれているに過ぎなかった。そこに日本百名山という普遍的な、誰もが認めるシステムが構築された。一般人であってもこのシステムにエントリーするだけで、ニッポン山岳界の重要な1ジャンルに関わることができるようになったのである」と。もう一つは、人々の自分の登りたい山、登るべき山の範囲を一気に日本全国に広げた点である。「日本百名山」が出されたことによって、日本全国に魅力的な山がたくさんあることがわかり、全国的な視野で山を見る人たちが一気に増えたことのプラスは大きいものがあるだろう。

 さて、山岳雑誌「岳人」の百名山特集から以上のような三つの事柄に注目した私だが、ここから百名山登山も目指す私たちの学ぶべきことを3点挙げておきたい。

1.私たち一般登山者が山岳記録の当事者になり得るという意味で、また日本全国の山に登る動機づけと指標を頂いた、という意味で「日本百名山」の意義は大きいこと。

 

2.「日本百名山」を単なる登るべき山のリストとしてとらえるのではなく、深田久弥という個人が、山の品性、歴史、個性を基準に選び、2000文字でその魅力を語った文学作品ととらえ、自らの持つ山に関わる精神世界を豊かにする素材としていくこと。

 

3.深田が登った当時と山岳環境は大きく変わっており、私たちは当時の苦労もしのびながら、「最小の労力でできだけ山の数を稼ぐ」といった発想だけでなく、可能なかぎりその山の魅力と最も向き合えるコースからじっくり登ること。

以上、深田久弥「日本百名山」発刊50年の年の初めに、私の考えたことである。今年も

屋久島と九州の百名山や大峰・大台ケ原・伯耆大山、朝日連峰をはじめたくさんの百名山

に登るつもりである。上の事柄に心を留めながら、楽しく魅力的な計画をどんどん出して

いきますので、乞うご期待を。

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